午前二時の茶室
湯がさめるまで、どうぞ。
第一話
コインランドリーと湯冷まし
朗読を聴く(約7分)
冥鳴ひまり
中国うさぎ
洗濯機が壊れたのは、よりによって水曜日だった。
真木さん、三十六歳。会社ではしっかり者で通っている。「大丈夫?」と聞かれたら「大丈夫です」と答える係を、もう十年やっている。
その週はいろいろあった。いろいろの中身は、書くと長いので書かない。とにかく水曜の夜、帰って洗濯機のボタンを押したら、ウ、と短く言って、それきり黙った。
家電は、人がいちばん疲れている週を選んで壊れる。
金曜の夜──正確には土曜の午前二時、真木さんは家から五分のコインランドリーにいた。乾燥機はあと四十分。ガラスの向こうでタオルがぐるぐる回っている。眺めていると、自分の一週間もだいたいこんな感じだったな、と思えてくる。
スマホの電池は、残り十二パーセント。夜中のコインランドリーは明るすぎて、かえって心細い。
小銭を落として、拾って、顔を上げたときだった。
隣の月極駐車場に、見慣れないものが停まっていた。
木でできた、小さな建物。屋台より大きく、家より小さい。よく見ると車輪がついている。窓の多い建物で、あたたかい色の灯りが、建物ごと行灯のように、駐車場の地面まで伸びていた。
……お茶屋さん?
真木さんは慎重な性格である。夜中に知らない建物に入ったりしない。しないのだが、その晩は乾燥機があと三十八分あった。
横腹の扉が、少し開いていた。のぞくと、狭い土間があって、左手の板戸が引かれていて、ひと段高い畳の部屋に、女の子がひとり、正座していた。
紺の絣に襷がけ。頭には手ぬぐいをかぶっている。年は十五にも見えるし、もっと上にも見える。何か小さく口ずさんでいたようだが、真木さんが覗いた時にはもう止まっていた。
女の子はふつうのことのように少し頭を下げて、畳を手で示した。
「湯がさめるまで、どうぞ」
畳は三畳きりで、木と、青い畳のにおいがした。隅の暗がりで、茶色い小さな犬が寝ている。真木さんは土間で靴を脱いで、ひとつ上がった。上がってから、なんで上がったんだろう、と思った。
女の子は鉄瓶の湯を、白い小さな器に移した。それきり、何もしない。湯気を見ている。
「……冷めるの、待ってるんですか」
「熱いままだと、渋くなるので」
「へえ」
「甘いところだけ、出したいので」
それきりまた静かになった。乾燥機の音も、車の音もしない。静かすぎて、真木さんは自分の口が勝手に動くのがわかった。洗濯機が壊れたこと。今週いろいろあったこと。いろいろの中身も、少し。「大丈夫?」と聞かれると「大丈夫です」と答えてしまうこと。
女の子は相槌も打たなかった。ただ、ちゃんと聞いている顔をしていた。それは真木さんが久しく会っていない種類の顔だった。
湯が冷めた。
女の子は急須に葉を入れ、湯を注ぎ、きっちり待ってから、小さな湯呑みに最後の一滴まで注ぎ切った。
濃い緑だった。緑というより、緑の底のほうの色。とろりとして、湯呑みの中で少し濁っている。
ひとくち。
甘かった。渋さの手前の、いちばんやわらかいところだけが来た。真木さんは、はあ、と息を吐いた。今週はじめて吐いた種類の息だった。
「……なんですか、これ」
「ふかむしのお茶です。葉を、ながく蒸すんです」
「ながく蒸すと、どうなるんですか」
「こまかく、やわらかくなります」
蒸されたのは私かもしれない、と真木さんは思ったが、言わなかった。
飲み終わるころ、女の子は小さな紙の袋をひとつ、真木さんの手に載せた。袋の隅に、判子がひとつ。手ぬぐいをかぶった女の子が、茶畑で葉を摘んでいる絵。
「これ……あなた?」
女の子は答えるかわりに、戸を開けた。外はもう、コインランドリーの白い灯りだった。
乾燥機は、あと三分だった。四十分あったはずなのに──と思ったが、たたんだタオルはどれもあたたかくて、それ以上考えるのはやめにした。
日曜の朝、真木さんは洗濯機の修理を予約して、やかんで湯を沸かした。もらった袋のお茶は、家でいれても、ちゃんと甘かった。湯を少し冷ますことだけ、忘れなかった。
月曜の夜、駐車場を見に行った。もちろん、何もなかった。
それでも台所には、判子の押された小さな袋が、ちゃんとある。
(つづく)
第二話
段ボールいっぱいの夏
朗読を聴く(約10分)
冥鳴ひまり
中国うさぎ
原田さん、三十八歳。冷蔵庫の野菜室が、閉まらない。
今年も、実家から段ボールが届いた。開けなくても中身はわかる。母が近所からもらった、キュウリとナス。「食べきれないから送るね」という電話が、今年も、届いた翌日にかかってきた。順番が、毎年逆である。
キュウリが十一本、ナスが九本。ひとり暮らしである。
最初の三日は、わりと楽しかった。切って塩をふるだけでおいしい。夏だし、と思って毎食食べた。四日目に浅漬けを作った。五日目に、冷蔵庫を開けるのがつらくなった。
八日目の夜、いちばん下にあったキュウリの端が、少しやわらかくなっていた。
原田さんは、それを見なかったことにして冷蔵庫を閉め、それから開け直して、取り出した。捨てるのに、なぜか三分かかった。
生ゴミの袋を持って外に出たのが、午前二時だった。
集積所は、マンションの裏の細い道の突き当たりにある。袋を置いて振り返ったら、道の脇の空き地に、木でできた小さな建物が停まっていた。
車輪がついている。窓という窓が開け放してあって、あたたかい色の灯りが、道までこぼれていた。
原田さんは、しばらく見ていた。それから、そういえば自分は今、生ゴミの匂いのする手をしているな、と思った。思ったが、足は勝手に近づいていた。
扉の奥、ひと段高い畳の部屋に、女の子がひとり座っていた。紺の絣に襷がけ、頭に手ぬぐい。何か小さく口ずさんでいる。節はあるが、歌詞は聞き取れない。
顔を上げて、女の子は言った。
「湯がさめるまで、どうぞ」
「あの、手を」
女の子は隅の桶を指した。ちゃんと水があった。
土間で靴を脱いで、ひとつ上がる。木と畳のにおいがした。開け放した窓を、夜の風が通り抜けてゆく。隅で茶色い小さな犬が寝ていて、原田さんが上がってもまるで起きなかった。
女の子は鉄瓶ではなく、水の入ったガラスの瓶を出してきた。中で茶葉が沈んでいる。
「今日は、冷たいのです」
「……湯がさめるまで、って言いませんでした?」
「言いました」
女の子はそれ以上説明しなかった。瓶をかたむけて、小さなガラスの器に注ぐ。
出てきたのは、濃い緑だった。ゆっくり注いだせいか、雲みたいに濁っている。
ひとくち。
甘い。冷たいのに、とろりとしている。喉を通ったあとに、青い匂いが上がってきた。原田さんは、あ、と思った。この匂い、キュウリの切り口に少し似ている。
「……野菜の匂いがします」
「葉っぱですから」
そうだった。お茶は葉っぱだった。原田さんは三十八年生きてきて、そのことを今はじめて実感した気がした。
それで、なぜか喋ってしまった。段ボールのこと。キュウリが十一本とナスが九本だったこと。最初の三日はおいしくて、五日目に冷蔵庫が開けられなくなって、八日目に一本捨てたこと。母に「もう送らなくていい」と言えないこと。言えないまま、たぶん来年もまた届くこと。
「捨てるとき、三分かかりました」
「三分」
「なんでか、すぐ捨てられなくて」
女の子は、少し考えるような顔をしてから、言った。
「野菜は、採れはじめがいちばんおいしいんです」
「……はい」
「そのつぎに、食べきれないほど採れます。そのあとは、かたくなって、おいしくなくなります」
原田さんは、自分の冷蔵庫の野菜室を思い浮かべた。
「うちのは、いま真ん中ですね。食べきれないところ」
「毎年、そうです」
女の子は瓶をかたむけて、二杯目を注いだ。
「旬は、こちらの都合を聞いてくれない。昔の人が、そう言っていました」
原田さんは、それを聞いて少し笑った。笑ってから、思ったより自分が疲れていたことに気づいた。母が悪いわけでもなく、キュウリが悪いわけでもなく、ただ量が多すぎたのだ。誰も悪くないのに、冷蔵庫の前で毎晩少しずつ、自分が悪い気持ちになっていた。
「量が多いのって、けっこう、しんどいですね」
「はい」
女の子はそれだけ言った。ちゃんと聞いている顔をしていた。
「お茶も、そうなんですか」
「そうです。摘んだ葉は、待ってくれないので」
「どうするんですか」
「乾かします」
女の子は、いま飲んでいる茶を指した。
「そうすると、あとで飲めます」
原田さんは、緑の濁った器を見た。何月に摘まれたものなのか、考えたことがなかった。
飲み終わるころ、女の子は小さな紙の袋をひとつ、原田さんの手に載せた。袋の隅に、手ぬぐいをかぶった女の子が茶畑で葉を摘んでいる判子。
帰りぎわ、犬がやっと目を開けた。原田さんはしゃがんで手を出した。犬はにおいを嗅いで、それから、まるで興味のない顔をして、また目を閉じた。
「野菜のにおい、しますよね。この手」
「その子、野菜は好きじゃないので」
「そうなんですか」
「五十年くらい生きたら、わかるのかもしれませんけど」
犬は寝ていた。
外に出ると、集積所に自分の置いた袋があった。時計を見たら、家を出てから七分しか経っていなかった。あんなに喋ったのに。
翌日、原田さんは残りのナスを全部焼いて、冷凍した。ゆで汁みたいな青くさい匂いが台所に立って、悪くなかった。
それから母に電話をした。「もう送らなくていい」とは、やっぱり言えなかった。かわりに、キュウリの塩もみがおいしくできたと言った。母は三十分喋った。
土曜の朝、もらった袋の茶を、水を入れた瓶に放り込んで冷蔵庫に入れた。夜に注いだら、ちゃんと濁って、ちゃんと甘かった。
集積所の脇の空き地は、月極駐車場の看板が立っているだけだった。
(つづく)
第三話
お盆の前の、ほうじ茶
朗読を聴く(約9分)
冥鳴ひまり
中国うさぎ
川辺さん、四十一歳。今年の夏も、どこにも行っていない。
夫の実家は、駅前で和菓子屋をやっている。結婚して十二年、店を手伝うようになって九年になる。
お盆は書き入れ時である。世間が休みに入る前の三日間がいちばん忙しくて、それが終わると今度は届け物の注文が立て込む。ゴールデンウィークも同じだった。世の中が休むと、この店は休めない。仕組みとしてそうなっているので、誰が悪いわけでもない。
八月十二日の夜。片付けが終わったのが、午前一時半だった。
義父母は先に上がった。夫は明日の仕込みで厨房に残っている。川辺さんはゴミをまとめて、裏口から出た。
スマホを見た。友人が海の写真を上げていた。もうひとりは長野にいるらしい。よかったね、と心の中で言った。それは本心だった。本心だったが、そのあとに何も続かなかった。
顔を上げると、店の裏の細い道に、木でできた小さな建物が停まっていた。
車輪がついている。窓が開け放してあって、あたたかい色の灯りが、細い道いっぱいにこぼれていた。
川辺さんは疲れていた。疲れていたので、驚くのを省略した。
扉の奥、ひと段高い畳の部屋に、女の子がひとり座っていた。紺の絣に襷がけ、頭に手ぬぐい。何か小さく口ずさんでいる。節はあるが、歌詞は聞き取れない。
「湯がさめるまで、どうぞ」
土間で靴を脱いで、ひとつ上がる。木と畳のにおいがして、開いた窓から夜の風が入ってくる。隅で茶色い小さな犬が寝ている。
女の子は急須ではなく、細長い土瓶を出してきた。蓋を取ると、茶色い葉が入っている。
「今日は、ほうじ茶です」
「……いいんですか、これ、私」
言ってから、川辺さんは自分でも何を聞いたのか分からなかった。女の子は分かったらしく、少し首をかたむけた。
「どうぞ」
湯を注ぐと、香ばしい匂いが立った。焼いたもののにおいだった。餡でも小麦でもない、もっと乾いた、落ち着いた匂い。
ひとくち飲んで、川辺さんは肩から力が抜けるのを感じた。
「あの」
「はい」
「これ、夜に飲んでも平気なやつですか」
「ほうじ茶は、焙じてあるので。眠れなくなるものが少ないです」
「よかった」
川辺さんは、それでもう一口飲んだ。
「今日、十二日なんです」
「はい」
「明日から三日、たぶん寝られないんです。だから、今夜のぶんだけでも寝ておきたくて」
そこまで言って、川辺さんは黙った。愚痴を言うつもりはなかった。夫の実家は良い人たちだし、店も好きだ。ただ、九年やっていて、誰にも言っていないことがひとつだけあった。
「みんなが休むときに、うちだけ休まないんですよね」
女の子はうなずいた。
「うちも、そうでした」
川辺さんは顔を上げた。
「うちの家は、四月の終わりから、お盆まで休みがありませんでした」
「……ずっとですか」
「ずっとです」
女の子は土瓶をかたむけて、二杯目を注いだ。
「新しい芽が出ると、待ってくれないので。摘んで、蒸して、揉んで、送って、そのあいだに畑の世話をして、また次のが出ます」
「よく体がもちますね」
「もたない人もいました」
さらりと言われて、川辺さんは少し笑ってしまった。笑ってから、九年ぶんの何かが、喉のあたりでほどけた気がした。
「うちは、正月とお盆が地獄です。世間が楽しいときが、いちばん」
「うちは、お祭りみたいだと言った人がいました」
「お祭り」
「外から嫁いできた人です。家じゅうが変になって、賑やかで、お祭りみたいだったと」
川辺さんは、店の三日間を思い浮かべた。義母が普段の三倍の速さで喋る。義父が急に鼻歌を歌う。夫が無口になる。自分は、たぶん誰よりも大きい声を出している。
「……お祭りかもしれないです、あれは」
「はい」
「疲れますけど」
「はい」
女の子はそれ以上、何も言わなかった。ただ、ちゃんと聞いている顔をしていた。
飲み終わるころ、女の子は小さな紙の袋をひとつ、川辺さんの手に載せた。袋の隅に、手ぬぐいをかぶった女の子が、茶畑で葉を摘んでいる判子。
戸を開けると、外は店の裏の道だった。
厨房の窓に、まだ灯りがついている。
翌朝、川辺さんは早く起きて、湯を沸かした。もらった袋を開けると、あの香ばしい匂いがした。
義母が下りてきて、鼻を動かした。
「あら、なにそれ」
「ほうじ茶です。いれますね」
義母は湯呑みを両手で持って、ひとくち飲んで、それから、ふう、と息を吐いた。
「うちのお菓子、これに合うわね」
九年で、はじめて聞いた種類の声だった。
その日から三日間は、やっぱり地獄だった。
十六日の夜、川辺さんは店の裏の道に出てみた。月極でも空き地でもない、ただの舗装された細い道があるだけだった。
台所には、判子の押された小さな袋がある。まだ半分くらい残っている。
(つづく)
第四話
かたちの、わるいお茶
朗読を聴く(約11分)
冥鳴ひまり
中国うさぎ
三好さん、三十九歳。デパ地下の菓子売り場で働いて、十四年になる。
売り場は、見た目がすべてである。箱の角。包み紙の折り目。最中のならび。お客さんは味を確かめられないから、見えるところで選ぶ。だから三好さんは毎日、見えるところを整える。それが仕事で、得意でもある。
九月のはじめ、売り場は敬老の日の支度に入る。その晩は閉店後の棚替えだった。什器を動かし、夏の柄を下げ、秋の柄を並べ、菓子折りの箱を何百個、角をそろえて積んだ。
終わったのが、午前一時四十分。
更衣室の鏡に、自分の顔が映った。三好さんはそれを見て、これは売り物にならないな、と思った。
通用口から出る。搬入口の脇に、たたんだ段ボールの山。タクシーのアプリは、到着まで十二分と言った。
その十二分のあいだに、見つけた。
搬入口の先の駐車スペースに、木でできた小さな建物が停まっていた。車輪がついている。窓の多い建物で、あたたかい色の灯りが、アスファルトの上までこぼれていた。
三好さんは、売り物を見る目でそれを見た。板の目がそろっている。角がきれいに納まっている。──いや、そうじゃなくて。
こういう反射は職業病である。分かっているが、直らない。
扉の奥、ひと段高い畳の部屋に、女の子がひとり座っていた。紺の絣に襷がけ、頭に手ぬぐい。何か小さく口ずさんでいたが、三好さんに気づくと、ふつうのことのように頭を下げた。
「湯がさめるまで、どうぞ」
土間で靴を脱いで、ひとつ上がった。木と畳のにおいがした。隅で茶色い小さな犬が寝ている。前足だけが、ときどきぴくぴく動いた。夢の中では走っているらしい。
女の子は鉄瓶の湯を白い器に移した。それから、小さな紙の上に乾いた茶葉を少しあけて、三好さんの前に置いた。
三好さんは、のぞきこんだ。
細かかった。針のようにぴんとした葉ではなくて、折れたのや、粉のようなのが、まじっている。
深蒸しのお茶なら、家でも飲んでいる。ただしティーバッグである。前に一度、茶葉で淹れたことがある。一杯目はおいしかった。おいしかったので二杯目を淹れようとしたら、急須の網が詰まって、湯が落ちてこなくなった。それきり袋のままで、中の葉をこうしてじっくり見たのは、はじめてだった。
「……これ、いいお茶なんですか」
言ってから、しまった、と思った。仕事の癖だった。箱の中身をあらためる時の言い方だった。
女の子は、気を悪くした様子もなかった。
「かたちは、わるいです」
あんまりはっきり言うので、三好さんのほうが少しあわてた。
「いえ、あの」
「葉が、あついんです」
「あつい?」
女の子は湯冷ましの器を見たまま、続けた。
「あつみのある葉なので、みじかく蒸すと、芯がのこります。だから、ながく蒸します。そうすると、やわらかくなって、くずれます」
湯が冷めた。女の子は急須に葉を入れ、湯を注ぎ、きっちり待って、小さな湯呑みに最後の一滴まで注ぎ切った。
鮮やかな緑だった。そして、とろりと濁っていた。
三好さんは飲んだ。
甘かった。濁りのぶんだけ、味が厚い。いつも家で飲んでいるのと同じ種類の、でも、ずっと奥のほうまで甘いお茶だった。
「……おいしい。これ、深蒸しですよね」
「はい」
「葉っぱが、こんなだとは知らなかった」
「くずれると、ぜんぶ湯に出ます」
女の子は言った。
「にごっているのは、中身です」
三好さんは、湯呑みの中を見た。細かい葉が、灯りの加減で、ゆっくり回っていた。
それで、なぜか話してしまった。売り場では、割れた煎餅は下げること。下げた煎餅を、自分は買って帰ること。味は同じであること。そのことを、なんとなく誰にも言わずにきたこと。
「変ですよね。きれいに並べるのが仕事なのに」
「きれいなものは、きれいです」
女の子は言った。おもねる感じでも、なぐさめる感じでもなかった。
「かたちのいいお茶も、あります。それは、それで、いいものです」
「じゃあ、これは」
「うちのは、えらべなかっただけです」
三好さんは、少し笑った。えらべなかっただけです、という言い方が、妙に気持ちよかった。言い訳でも、開き直りでもなかった。ただの報告だった。
飲み終わるころ、女の子は小さな紙の袋をひとつ、三好さんの手に載せた。袋の隅に、手ぬぐいをかぶった女の子が、茶畑で葉を摘んでいる判子。
それから、もうひとつ。筒のかたちをした、小さな道具だった。細かい網が張ってある。使いこまれて、網のふちの色が少し変わっていた。
「湯呑みや瓶に差して、つかいます。中で、葉がひらけるので」
「……いいんですか。使ってるものでしょう、これ」
「うちには、まだあります」
三好さんは、それを両手で受け取った。
外に出ると、スマホが震えた。タクシーが、あと一分で着くという。十二分あったはずなのに──と思ったが、考えるのはやめて、搬入口のほうへ歩いた。
翌日、売り場で三好さんは、いつも通りに箱の角をそろえた。仕事は仕事である。手は抜かなかった。
ただ、休憩室で、下げた煎餅の袋を開けるとき、隠すのをやめた。割れてます、味は同じなので、と言って、後輩に配った。後輩はふつうに食べた。それだけのことだった。
日曜の朝、三好さんは、もらった道具に葉を入れて、マグカップに差した。冷ました湯を注いで、一分。カップの中は、ちゃんと濁った。
三好さんはそれを、窓の光にすかしてみた。
中身か、と思った。
二杯目も、ちゃんと出た。それだけのことが、思ったよりうれしかった。
搬入口の先の駐車スペースには、その後、コーンが二つ置いてあるだけである。
(つづく)
第五話
教室のやかん
朗読を聴く(約8分)
冥鳴ひまり
中国うさぎ
浅野さん、四十三歳。思い出したのは、布団の中だった。
給食着である。娘が金曜に持ち帰った給食着を、洗って、アイロンをかけて、月曜の朝までに返す。洗うところまでは土曜に済ませた。アイロンを、忘れていた。時計は午前一時だった。
起きて、アイロン台を出した。
給食着というものは、三十年前と同じ形をしている。袖を通したことのある人間には、それがわかる。白くて、少し大きくて、名札のところだけ布が厚い。
蒸気と一緒に、夕飯のことが上がってきた。
母が送ってくれたお茶を、いれた。娘は湯呑みにさわらず、麦茶がいい、と言った。おばあちゃんのお茶なのに、と、つい言った。娘は黙って麦茶を飲んだ。それだけのことだった。それだけのことが、袖を一枚のばすたびに、上がってくる。
そして給食着は、もうひとつ、思い出させた。
教卓の上に、やかんがあった。
お茶が入っていた。毎日、用意されていた。誰も飲まなかった。浅野さんも、飲まなかった。理由は覚えていない。というより、理由なんて無かった。誰も飲まないから、飲まなかった。まずいかどうかも、知らなかった。飲んだことがないのだから。
アイロンのりが、途中で切れた。
上着を羽織って、コンビニまで歩いた。十月の夜は、もう冷たい。のりを一本買って、帰り道、児童公園の脇を通った。
砂場の横に、木でできた小さな建物が停まっていた。車輪がついている。しめきった窓ガラスの内から、あたたかい色の灯りが、砂場の砂の上まで伸びていた。
浅野さんは、コンビニの袋を提げたまま、しばらく見ていた。それから、近づいた。
扉の奥、ひと段高い畳の部屋に、女の子がひとり座っていた。紺の絣に襷がけ、頭に手ぬぐい。何か小さく口ずさんでいる。
「湯がさめるまで、どうぞ」
土間で靴を脱いで、ひとつ上がる。木と畳のにおいがした。隅の犬は今夜は起きていて、浅野さんの匂いをひとつ嗅ぐと、それで用は済んだという顔をして、また丸くなった。
女の子は、今夜は湯を冷まさなかった。鉄瓶から、そのまま急須に注ぐ。
「……冷まさないんですね」
「番茶は、あついままで」
湯呑みの中は、薄くて、あかるい色だった。
ひとくち。
甘くはない。濃くもない。でも、ちゃんとお茶の味がした。ごはんの湯気のとなりにいるような味。おいしい、というより、ふだんの味だった。
そのふだんの味を、浅野さんは、四十三歳ではじめて飲んでいる気がした。
それで、話してしまった。教卓のやかんのこと。誰も飲まなかったこと。自分も飲まなかったこと。今日、娘に言ってしまった一言のこと。
「私、人のこと言えないんです。飲まなかった側なので」
女の子は、ちゃんと聞いている顔をしていた。
「……どうしたら、飲むようになりますか」
「わかりません」
即答だった。浅野さんは、逆に少し安心した。
それから、女の子は言った。
「うちにも、のまない子が、いました」
「……その子は」
「いまは、お茶を、つくっています」
浅野さんは、湯呑みの薄い色を見た。三十年、と思った。
飲み終わるころ、女の子は小さな紙の箱をひとつ、浅野さんの手に載せた。中に、糸のついた小さな袋がならんでいる。箱の隅に、手ぬぐいをかぶった女の子が、茶畑で葉を摘んでいる判子。
「これは、ひとりで、いれられるので」
誰が、とは言わなかった。
家に帰ると、アイロンはまだほんのり温かかった。消してから、ずいぶん経ったはずなのに──と思ったが、のりを振って、続きをかけた。
月曜の朝、給食着を袋に入れて持たせた。
その晩の夕飯で、浅野さんは自分の湯呑みに番茶をいれた。娘の麦茶のとなりに、小さい湯呑みをひとつ、黙って置いた。娘は麦茶を飲んだ。
それでいい、と思えた。三十年ぐらいは、待てる気がした。
児童公園の砂場の横には、次の夜、何もなかった。ブランコだけが、たまに、風で揺れる。
(つづく)