第一話 コインランドリーと湯冷まし
洗濯機が壊れたのは、よりによって水曜日だった。
真木さん、三十六歳。会社ではしっかり者で通っている。「大丈夫?」と聞かれたら「大丈夫です」と答える係を、もう十年やっている。
その週はいろいろあった。いろいろの中身は、書くと長いので書かない。とにかく水曜の夜、帰って洗濯機のボタンを押したら、ウ、と短く言って、それきり黙った。
家電は、人がいちばん疲れている週を選んで壊れる。
金曜の夜──正確には土曜の午前二時、真木さんは家から五分のコインランドリーにいた。乾燥機はあと四十分。ガラスの向こうでタオルがぐるぐる回っている。眺めていると、自分の一週間もだいたいこんな感じだったな、と思えてくる。
スマホの電池は、残り十二パーセント。夜中のコインランドリーは明るすぎて、かえって心細い。
小銭を落として、拾って、顔を上げたときだった。
隣の月極駐車場に、見慣れないものが停まっていた。
木でできた、小さな建物。屋台より大きく、家より小さい。よく見ると車輪がついている。引き戸が少し開いていて、中からあたたかい色の灯りが漏れていた。
……お茶屋さん?
真木さんは慎重な性格である。夜中に知らない建物に入ったりしない。しないのだが、その晩は乾燥機があと三十八分あった。
戸のところまで行くと、中に女の子がひとり、正座していた。
紺の絣に襷がけ。頭には手ぬぐいをかぶっている。年は十五にも見えるし、もっと上にも見える。何か小さく口ずさんでいたようだが、真木さんが覗いた時にはもう止まっていた。
女の子はふつうのことのように少し頭を下げて、畳を手で示した。
「湯がさめるまで、どうぞ」
中は畳二枚ぶんくらいで、木と、青い畳のにおいがした。隅の暗がりで、茶色い小さな犬が寝ている。真木さんは靴を脱いで上がった。上がってから、なんで上がったんだろう、と思った。
女の子は鉄瓶の湯を、白い小さな器に移した。それきり、何もしない。湯気を見ている。
「……冷めるの、待ってるんですか」
「熱いままだと、渋くなるので」
「へえ」
「甘いところだけ、出したいので」
それきりまた静かになった。乾燥機の音も、車の音もしない。静かすぎて、真木さんは自分の口が勝手に動くのがわかった。洗濯機が壊れたこと。今週いろいろあったこと。いろいろの中身も、少し。「大丈夫?」と聞かれると「大丈夫です」と答えてしまうこと。
女の子は相槌も打たなかった。ただ、ちゃんと聞いている顔をしていた。それは真木さんが久しく会っていない種類の顔だった。
湯が冷めた。
女の子は急須に葉を入れ、湯を注ぎ、きっちり待ってから、小さな湯呑みに最後の一滴まで注ぎ切った。
濃い緑だった。緑というより、緑の底のほうの色。とろりとして、湯呑みの中で少し濁っている。
ひとくち。
甘かった。渋さの手前の、いちばんやわらかいところだけが来た。真木さんは、はあ、と息を吐いた。今週はじめて吐いた種類の息だった。
「……なんですか、これ」
「ふかむしのお茶です。葉を、ながく蒸すんです」
「ながく蒸すと、どうなるんですか」
「こまかく、やわらかくなります」
蒸されたのは私かもしれない、と真木さんは思ったが、言わなかった。
飲み終わるころ、女の子は小さな紙の袋をひとつ、真木さんの手に載せた。袋の隅に、判子がひとつ。手ぬぐいをかぶった女の子が、茶畑で葉を摘んでいる絵。
「これ……あなた?」
女の子は答えるかわりに、戸を開けた。外はもう、コインランドリーの白い灯りだった。
乾燥機は、あと三分だった。四十分あったはずなのに──と思ったが、たたんだタオルはどれもあたたかくて、それ以上考えるのはやめにした。
日曜の朝、真木さんは洗濯機の修理を予約して、やかんで湯を沸かした。もらった袋のお茶は、家でいれても、ちゃんと甘かった。湯を少し冷ますことだけ、忘れなかった。
月曜の夜、駐車場を見に行った。もちろん、何もなかった。
それでも台所には、判子の押された小さな袋が、ちゃんとある。
(つづく)
今月の一服
深蒸し煎茶は、湯を少し冷ましてからいれてください。熱いままだと、渋いところまで出てしまいます。
湯呑みに一度うつして、湯気の勢いが落ちるくらいまで待つ。それだけで、甘いところが出ます。
急須は最後の一滴まで注ぎ切ってください。残った湯が、二煎目を渋くします。



