第二話 段ボールいっぱいの夏
原田さん、三十八歳。冷蔵庫の野菜室が、閉まらない。
先週、実家から段ボールが届いた。母が近所からもらった、キュウリとナス。「食べきれないから送るね」という電話が、届いた翌日にかかってきた。順番が逆だと思う。
キュウリが十一本、ナスが九本。ひとり暮らしである。
最初の三日は、わりと楽しかった。切って塩をふるだけでおいしい。夏だし、と思って毎食食べた。四日目に浅漬けを作った。五日目に、冷蔵庫を開けるのがつらくなった。
八日目の夜、いちばん下にあったキュウリの端が、少しやわらかくなっていた。
原田さんは、それを見なかったことにして冷蔵庫を閉め、それから開け直して、取り出した。捨てるのに、なぜか三分かかった。
生ゴミの袋を持って外に出たのが、午前二時だった。
集積所は、マンションの裏の細い道の突き当たりにある。袋を置いて振り返ったら、道の脇の空き地に、木でできた小さな建物が停まっていた。
車輪がついている。引き戸が少し開いて、あたたかい色の灯りが漏れていた。
原田さんは、しばらく見ていた。それから、そういえば自分は今、生ゴミの匂いのする手をしているな、と思った。思ったが、足は勝手に近づいていた。
戸の中に、女の子がひとり座っていた。紺の絣に襷がけ、頭に手ぬぐい。何か小さく口ずさんでいる。節はあるが、歌詞は聞き取れない。
顔を上げて、女の子は言った。
「湯がさめるまで、どうぞ」
「あの、手を」
女の子は隅の桶を指した。ちゃんと水があった。
中は狭くて、木と畳のにおいがした。冷房はないのに、涼しい。隅で茶色い小さな犬が寝ていて、原田さんが上がってもまるで起きなかった。
女の子は鉄瓶ではなく、水の入ったガラスの瓶を出してきた。中で茶葉が沈んでいる。
「今日は、冷たいのです」
「……湯がさめるまで、って言いませんでした?」
「言いました」
女の子はそれ以上説明しなかった。瓶をかたむけて、小さなガラスの器に注ぐ。
出てきたのは、濃い緑だった。ゆっくり注いだせいか、雲みたいに濁っている。
ひとくち。
甘い。冷たいのに、とろりとしている。喉を通ったあとに、青い匂いが上がってきた。原田さんは、あ、と思った。この匂い、キュウリの切り口に少し似ている。
「……野菜の匂いがします」
「葉っぱですから」
そうだった。お茶は葉っぱだった。原田さんは三十八年生きてきて、そのことを今はじめて実感した気がした。
それで、なぜか喋ってしまった。段ボールのこと。キュウリが十一本とナスが九本だったこと。最初の三日はおいしくて、五日目に冷蔵庫が開けられなくなって、八日目に一本捨てたこと。母に「もう送らなくていい」と言えないこと。言えないまま、たぶん来年もまた届くこと。
「捨てるとき、三分かかりました」
「三分」
「なんでか、すぐ捨てられなくて」
女の子は、少し考えるような顔をした。
「採れはじめが、いちばんおいしいんです」
「……はい」
「そのつぎに、食べきれないほど採れます。おわりのころは、かたくなって、おいしくなくなります」
「知ってます。今、真ん中です」
「毎年です」
女の子は瓶をかたむけて、二杯目を注いだ。
「昔の人が言っていました。旬は、こちらの都合を聞いてくれないと」
原田さんは、それを聞いて少し笑った。笑ってから、思ったより自分が疲れていたことに気づいた。母が悪いわけでもなく、キュウリが悪いわけでもなく、ただ量が多すぎたのだ。誰も悪くないのに、冷蔵庫の前で毎晩少しずつ、自分が悪い気持ちになっていた。
「量が多いのって、けっこう、しんどいですね」
「はい」
女の子はそれだけ言った。ちゃんと聞いている顔をしていた。
「お茶も、そうなんですか」
「そうです。摘んだ葉は、待ってくれないので」
「どうするんですか」
「乾かします」
女の子は、いま飲んでいる茶を指した。
「そうすると、あとで飲めます」
原田さんは、緑の濁った器を見た。何月に摘まれたものなのか、考えたことがなかった。
飲み終わるころ、女の子は小さな紙の袋をひとつ、原田さんの手に載せた。袋の隅に、手ぬぐいをかぶった女の子が茶畑で葉を摘んでいる判子。
帰りぎわ、犬がやっと目を開けた。原田さんはしゃがんで手を出した。犬はにおいを嗅いで、それから、まるで興味のない顔をして、また目を閉じた。
「野菜のにおい、しますよね。この手」
「その子、野菜は好きじゃないので」
「そうなんですか」
「五十年くらい生きたら、わかるのかもしれませんけど」
犬は寝ていた。
外に出ると、集積所に自分の置いた袋があった。時計を見たら、家を出てから七分しか経っていなかった。あんなに喋ったのに。
翌日、原田さんは残りのナスを全部焼いて、冷凍した。ゆで汁みたいな青くさい匂いが台所に立って、悪くなかった。
それから母に電話をした。「もう送らなくていい」とは、やっぱり言えなかった。かわりに、キュウリの塩もみがおいしくできたと言った。母は三十分喋った。
土曜の朝、もらった袋の茶を、水を入れた瓶に放り込んで冷蔵庫に入れた。夜に注いだら、ちゃんと濁って、ちゃんと甘かった。
集積所の脇の空き地は、月極駐車場の看板が立っているだけだった。
(つづく)
今月の一服
水出しは、いちばん失敗しない淹れ方です。瓶に葉を入れて水を注ぎ、冷蔵庫でひと晩。渋みが出ないので、濃く入れても甘いままです。飲みきったあとの葉は、その日のうちに。
開封後のお茶は、冷凍庫に入れておくのが確実です。冷たいまま封を開けて、必要なぶんだけ出して、すぐ閉めて戻す。それで十分です。



