午前二時の茶室

第三話 お盆の前の、ほうじ茶

川辺さん、四十一歳。今年の夏も、どこにも行っていない。

夫の実家は、駅前で和菓子屋をやっている。結婚して十二年、店を手伝うようになって九年になる。

お盆は書き入れ時である。世間が休みに入る前の三日間がいちばん忙しくて、それが終わると今度は届け物の注文が立て込む。ゴールデンウィークも同じだった。世の中が休むと、この店は休めない。仕組みとしてそうなっているので、誰が悪いわけでもない。

八月十二日の夜。片付けが終わったのが、午前一時半だった。

義父母は先に上がった。夫は明日の仕込みで厨房に残っている。川辺さんはゴミをまとめて、裏口から出た。

スマホを見た。友人が海の写真を上げていた。もうひとりは長野にいるらしい。よかったね、と心の中で言った。それは本心だった。本心だったが、そのあとに何も続かなかった。

顔を上げると、店の裏の細い道に、木でできた小さな建物が停まっていた。

車輪がついている。引き戸が少し開いて、あたたかい色の灯りが漏れていた。

川辺さんは疲れていた。疲れていたので、驚くのを省略した。

戸の中に、女の子がひとり座っていた。紺の絣に襷がけ、頭に手ぬぐい。何か小さく口ずさんでいる。節はあるが、歌詞は聞き取れない。

「湯がさめるまで、どうぞ」

中は狭くて、木と畳のにおいがした。隅で茶色い小さな犬が寝ている。川辺さんは靴を脱いで、上がった。

女の子は急須ではなく、細長い土瓶を出してきた。蓋を取ると、茶色い葉が入っている。

「今日は、ほうじ茶です」

「……いいんですか、これ、私」

言ってから、川辺さんは自分でも何を聞いたのか分からなかった。女の子は分かったらしく、少し首をかたむけた。

「どうぞ」

湯を注ぐと、香ばしい匂いが立った。焼いたもののにおいだった。餡でも小麦でもない、もっと乾いた、落ち着いた匂い。

ひとくち飲んで、川辺さんは肩から力が抜けるのを感じた。

「あの」

「はい」

「これ、夜に飲んでも平気なやつですか」

「ほうじ茶は、焙じてあるので。眠れなくなるものが少ないです」

「よかった」

川辺さんは、それでもう一口飲んだ。

「今日、十二日なんです」

「はい」

「明日から三日、たぶん寝られないんですけど」

そこまで言って、川辺さんは黙った。愚痴を言うつもりはなかった。夫の実家は良い人たちだし、店も好きだ。ただ、九年やっていて、誰にも言っていないことがひとつだけあった。

「みんなが休むときに、うちだけ休まないんですよね」

女の子はうなずいた。

「うちも、そうでした」

川辺さんは顔を上げた。

「うちの家は、四月の終わりから、お盆まで休みがありませんでした」

「……ずっとですか」

「ずっとです」

女の子は土瓶をかたむけて、二杯目を注いだ。

「新しい芽が出ると、待ってくれないので。摘んで、蒸して、揉んで、送って、そのあいだに畑の世話をして、また次のが出ます」

「よく体がもちますね」

「もたない人もいました」

さらりと言われて、川辺さんは少し笑ってしまった。笑ってから、九年ぶんの何かが、喉のあたりでほどけた気がした。

「うちは、正月とお盆が地獄です。世間が楽しいときが、いちばん」

「うちは、お祭りみたいだと言った人がいました」

「お祭り」

「外から嫁いできた人です。家じゅうが変になって、賑やかで、お祭りみたいだったと」

川辺さんは、店の三日間を思い浮かべた。義母が普段の三倍の速さで喋る。義父が急に鼻歌を歌う。夫が無口になる。自分は、たぶん誰よりも大きい声を出している。

「……お祭りかもしれないです、あれは」

「はい」

「疲れますけど」

「はい」

女の子はそれ以上、何も言わなかった。ただ、ちゃんと聞いている顔をしていた。

飲み終わるころ、女の子は小さな紙の袋をひとつ、川辺さんの手に載せた。袋の隅に、手ぬぐいをかぶった女の子が、茶畑で葉を摘んでいる判子。

戸を開けると、外は店の裏の道だった。

厨房の窓に、まだ灯りがついている。

翌朝、川辺さんは早く起きて、湯を沸かした。もらった袋を開けると、あの香ばしい匂いがした。

義母が下りてきて、鼻を動かした。

「あら、なにそれ」

「ほうじ茶です。いれますね」

義母は湯呑みを両手で持って、ひとくち飲んで、それから、ふう、と息を吐いた。

「うちのお菓子、これに合うわね」

九年で、はじめて聞いた種類の声だった。

その日から三日間は、やっぱり地獄だった。

十六日の夜、川辺さんは店の裏の道に出てみた。月極でも空き地でもない、ただの舗装された細い道があるだけだった。

台所には、判子の押された小さな袋がある。まだ半分くらい残っている。

(つづく)

今月の一服

ほうじ茶は、茶葉を高い温度で焙じたお茶です。焙じる過程で、眠りを妨げる成分がかなり減ります。夜に飲むならこちらを。

熱い湯を、冷まさずにそのまま注いでください。深蒸し煎茶とは逆で、ほうじ茶は熱いほど香りが立ちます。待つのは三十秒ほど。

夏は、濃いめにいれて氷を入れても崩れません。

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